散花


 桃の花びらが散る。
 如月。
 暦の上では春であっても、突き刺すような寒さだ。

 一護は顔を上げた。
 目尻には薄紅色の花弁。

 声は出ない。
 出るはずの嗚咽は、雪と共に飲み込まれ。

 覚悟はしていた、なんて口では言っても。

「……ッ」

 雪がしんしんと降る。
 ぽろぽろと零れる雫が、凍えるような寒さに凍り付いて。
 真珠のように落ちていくのではないか、と。



 *



 あいつ、変わったよな。
 そのたぐいの言葉は、基本として良くない意味で使われる。

 恋次はそう言った。
 より一層仕事に打ち込むようになった友人へ。

「一護」
「何だ?」

 雰囲気も変わった。
 目つきは元々悪くて、口だって悪い。
 けれどこんな、触れたら傷つきそうな、凍てつく氷の刃のような。

「今日の分は終わりだとよ」
「…わかった」

 納得していなさそうな顔で。
 第一、一護は昨日虚の討伐に出かけていて、今日の職務はその報告書の提出だったはずだ。
 なのに、普段と変わらぬ仕事をしている。

「…その……あまり、無茶すんなよ」

 恋次に言える台詞はそれだけ。
 ん…、と。
 今までのような甘えるような声はなく。

「分かった」

 堅い堅い返事。

「…… 分かってねえじゃん」

 この言葉を紡いだのは何度目か知らぬ。
 一護の背中を見送って、恋次は息を吐いた。
 一護の背中はあんなに小さかっただろうか?


*


 あの橙の灯火を見たのは、昨年の春。
 桜の花びらが舞う中、それに負けぬ色彩を放っていた。
 護廷に入隊したばかりだというその子供は、早くも席官に上り詰め。
 その霊圧の高さとそれに引けを取らぬ実力故に、上官から目を掛けられているという。

「…… あの子は?」
「ああ。一護ちゃんだね。浮竹のお気に入りだよ」

 京楽は、傘を目深に被って。
 目を細めて、その子供を見やった。

「浮竹が自慢してくるんだ。まるで娘が出来た気分なんだろうね」

 おかげでボクは、可愛い花を毒牙にかける虫扱いだ。
 おかしそうに笑う。
 京楽自身、あの少女とは親しいとは言えずとも顔見知りの関係らしい。

「今年の夏、結婚するんだって。ほら、あの隣にいる子だよ」

 鮮やかな橙に比べて、彩度の低い。
 茶髪の男は、浮竹に頬を引っ張られる子供を笑って見ている。

「へえ…」
「人妻には手出さないってのに、浮竹の奴酷いんだから」

 それはどうだか。
 浦原は白い目を京楽に向けた。

 酷い!浦原くんまでそう言うんだ?!と声を荒げていた。

 その声に気づいて。
 少女はこちらを向いた。
 琥珀色。
 蜂蜜色。

「一護ちゃーん!」

 頭を下げてくる。
 騒いでいるのが京楽だと分かったのだ。
 それに隣にいる隊長羽織を纏った男…つまりは自分、浦原に対しても。

 浮竹が、何かを言っている。
 おそらく、京楽なんかに挨拶をしなくて良いと言っているのだろう。

 浦原は男を見た。
 人並以上には整った。
 優しそうな顔をした男。

 数ヶ月後には、一護の夫になると言う男を。

 浦原は口元に、笑みをたたえた。



*



 死神の魂は、尸魂界で死ぬとまた現世に帰る。
 けれど一護の夫であった男の魂は、二度と帰らない。
 虚に食われてしまったから。

 瀞霊廷が見下ろせる小高い丘。
 死した死神が眠る丘。

 その大地に魂はない。
 その代わり、墓標の下には義骸が眠る。
 永遠に腐らぬ特殊な義骸。

「… −−」

 男の名を。
 この大地に義骸を埋める男を、認識するその言葉を。
 刻まれた石に一護は指を沿わせて、呟いた。

 傍には行けない。
 行きたいのに、行けない。
 だってその魂魄は、この世界の何処にも存在しないから。

「…バカ野郎…っ」

 この地へ立って何度罵ったことか。
 優しい男は、決して弱くはなかったはずだ。
 一人にしないと、言った男は。
 一護をこの世界で独りぼっちにさせた。

「…泣いてるの?」

 男の声音に、似ていると思った。
 その優しい口調も。

 一護は振り返る。
 そしてやはり『似ている』だけであったと落胆した。

「…… 浦原、隊長…?」

 そこにいたのは、十二番隊の…?

 色彩も違う。
 枯草色も、くすんだ翡翠も。
 彼の人は持ち合わせていない。

 言葉を交わしたこともない男は、細い指先で一護の目尻をなぞる。

「忘れられないの?」

 忘れたい。これ以上傷つきたくない。
 忘れて良いよ、幸せになって欲しいと男は言った。
 ただ時には思い出して欲しいと言った。

 忘れられる、はずがない。
 ふれあった温かさも。
 つながりあった熱さも。

「そう」

 どうして、そんなことを聞くのか。
 気に病むな、と皆告げて。
 どうして病まずにいられようか。

 男が虚に食われたのと同じ。
 一護のココロも食われてしまった。

「……忘れさせてあげる」

 深い闇を宿す。
 その瞳は虚にも似て。

 ああ、食われるのだ。


 *


 あの子、変わったわね。

 半年前、伴侶を亡くした少女は、いつしかよく笑うようになった。
 花のように。

「浦原さん」

 くすくすと笑みを零す。
 薔薇のように綻んで。

 虚ろではない。
 この感情は、あの子供本来のもの。

 辛く悲しい記憶を失ったのだ、と誰かが言った。

「どういうことだい?」

 京楽は酷く冷えた声で。

 一護は不思議そうに首をかしげた。
 浦原と絡めた指先はそのまま。

「この子が、望んだんすよ」

 アタシは、その方法を知っていただけだ。

「そんなことをして、虚しくないのかい?」
「この感情は、本物だ」

 浦原を愛するようになった気持ちは。
 ただ、愛する人を失ったという記憶がないだけ。
 嘘偽りはない。

「…… ずっと、欲しかった。いなくなってくれたのは好都合でしたよ」

 でなきゃ、殺していたかも知れない。
 口外にそう告げて。
 浦原は絡めた指先に、口づけした。


2007/02/24