雪の滴がこぼれ落ちるように

 腹から血は流れ続けているし、助けを呼べる声は出ない。
 周りは虚の群れ。
 一護の足下には、今息絶えたばかりの同僚の死体があった。

 死。

 人は死ぬと流魂街へ行く。
 死神は死んだらどこへ行くのだろう。

 流魂街にいたときはいつも付きまとっていた闇。
 死神になってからは一度も感じたことはない。

(一護、俺を出せ。こんな雑魚、蹴散らしてやるよ)

 一護がここにいるときに、彼の声が聞こえるのも久しぶりだ。
 彼と会うときはいつも、一護はあちらに行っていた。

(出さない。俺は、死なない)

 一護が会話していようが、虚には関係のないことだ。
 襲いかかる腕を避けて、一護は斬月を叩き込む。

 尸魂界には救援を求めた。
 あれから5分は経ったが、虚以外の気配を感じない。

 初任務なのについていないと心底思った。

 その隙に、虚の大きなかぎ爪のような手が、死んだ同僚の体を浚う。
 死体とはいえ、流魂街に連れて帰ろうと思っていた。そして弔ってやろうと。
 返せ、と叫んで一護はその死神に刀を下ろしたが逃げられる。

 たぶん、この虚がこの中で一番強いことは何となく分かった。
 まず先にこいつを倒さなければならない、そう思ったのに。

「…っ 」

 悲鳴さえも声にならない。
 声が出ようが出まいが、関係なかったのかもしれない。

 虚が同僚を食らっていく。
 血が、肉が、骨がその口に吸い込まれる。

(怖い)

 体を失っていく同僚も、食らう虚も。
 体が貼り付けられたように動かなくなった。

 虚はかつて人であったという。

 人を殺すことに恐怖もためらいもない。
 流魂街にいたときに、何度かそういう機会があったからだ。
 生きるために、一護は何度か人を殺した。虚を殺すことにも抵抗はなかった。

 人が、人を食べている。
 ただそれが空恐ろしかった。

 動けぬ体をよそに、虚は一護に襲いかかる。
 振り下ろされた爪をまともに食らった。
 血が流れた。
 まだ流れる血があったのか、とどこかで冷静に思う。

(馬鹿が。ぐずぐずしてんじゃねえ)

 一護を内側から食い破る。
 彼もまた虚だ。
 引きずり込まれそうになって、必死で抗ったけれど適わない。

「待ちなさい」
「げほっ…、か、は…ッ」

 冷たい手に包まれる。
 急に引き出された一護は咳き込んだ。
 血の絡んだ咳。
 少し黒いそれに、きっと内臓をやられたのだと感じた。

(ちっ…いつもいつも邪魔なやつだ)

 男は悪態をついて消えた。
 一護はその場に横たえられた。
 霊圧に包まれる。

「やっぱり、一人で行かせるべきではありませんでした」

 啼け、紅姫。

 彼の戦うところは初めて見る。
 彼の斬魄刀の主は、その名の通り美しい女性だ。
 戦う姿も美しかった。

 虚が散っていく。
 彼は酷く強かった。
 一護なんて足下に及ばぬほどに。

「大丈夫っスか?」

 平気なものか。
 腕一本動かせぬ体で、それでも一護は浦原を睨んだ。

 浦原は一護の周りに張った結界を解いた。
 虚は既に居なくなったからだ。

「ああ、喋れないんでしたね」

 浦原の手が一護の腹に触れる。
 血が止まらぬそこは、浦原が戦っている間も流れっぱなしだ。
 いい加減意識だって飛びそうだった。

「傷を付けるなんて…一度殺しただけじゃ足りません」

 殺気立つ声とは逆に、浦原の鬼道は、慈しむようなそれだった。
 一度そのことを夜一に話したら、それはおぬしだからだと言っていた。
 浦原は斬術だけでなく鬼道も得意だったけれど、その癒しの力を使うことは滅多にないそうだ。

 大方ふさがった腹の傷に、一護はひっそり感嘆の息を漏らした。

「…けほ…っ…お、い」

 軽く咳き込んで、声がようやく出るようになった。
 少しかすれてはいるものの、会話に支障はない。

「何です?」
「手、離せ… って、ちょ!?」

 一護のにらみなど気にする素振りも見せない。
 浦原はその秀麗な顔に笑みを浮かべていた。
 膝裏に手を滑らせされて、一護は声を荒げた。

「軽いっスね。ちゃんと食べてます?」
「食べてる。下ろせ」
「歩けないでしょ」

 お姫様だっこ、という奴をされたのは生まれて初めてだ。
 紅潮する頬を止められずに、一護は暴れた。

「お腹の傷が開きますよ」
「開いても良い!離せえッ!!」

 抵抗を易々と抑え込み、声を上げて笑う浦原は、尸魂界の扉をくぐった。




 *



 隊長室に寝かされる。
 浦原はなぜか四番隊に連れては行かなかった。
 敷かれた布団を見て、そんなものがあったのかという視線を受けた浦原は笑った。

『ええ、いつかここでアナタと寝ようと思いまして』

 寝る、ということが睡眠を取るだけではないことをその言葉の数拍後に悟った。
 体を動かすことが出来れば、間違いなく浦原の顔に鉄拳が飛んでいたはずだ。

『まあ布団より、現世の"ベッド"って奴の方が軋んで良いと思うんですけどねえ』

 いや、拳どころでは済まなかっただろう。
 浦原は、ベッドを開発しようとしているらしい、と阿近に聞いたのはそれから数日も経たないことだったが、今の一護が知るよしもない。

「水差しですか?」

 その問いかけに一護は首を縦に振った。
 こちらに戻ってきて、再び声が出なくなった。
 喉を酷く痛めたせいと、安心したせいだろうと目の前の男はいった。

 正直この男を前にして違う意味で安心などしていられない。

「飲めます?」

 水差しから注がれたコップを手渡される。
 浦原の手を借りて起きあがった一護は、ぎこちない手でコップを口元に寄せた。
 力の入らぬ手が震えて、コップを支えきれない。

 落ちかけたコップを浦原に拾われて、一護は唇でごめんと呟いた。

「良いっすよ。それなら口移しで…というのは冗談です」

 そういってコップに一度口付けた浦原だったが、一護の鋭い視線を感じて止めた。
 今の一護は抵抗できないが、復活したとたん殴られる可能性があるからだ。

 何度もキスした仲じゃありませんか、とぶつぶつ呟く浦原だったが、手にしたコップを一護の口元に寄せた。
 大体何度も、というが浦原と一護は恋仲ではない。
 不本意で不愉快きわまりないが、浦原が勝手に奪っていくだけの話だ。

 傾けたコップから零れた水が唇を伝う。

「零れちゃいましたね」

 浦原は笑って唇の端を舐めた。
 一護の思考は停止した。

「…口移しすれば良かった」

 浦原は酷く残念そうな顔をした。

「何をしておるッ バカ喜助!!」

 動けない一護の代わりに、夜一の蹴りが浦原の背中に直撃する。
 よろめいた浦原は一護の元へ倒れ込みそうになったが、夜一は素早い動きで反対方向に倒した。

「無事か?一護。おぬしが大怪我をしたと聞いてどれだけ肝が冷えたことか」
(ごめん。有難う)

 夜一が心配を顔に浮かべて、一護の手を握った。
 一護は少しだけ動く手を握り替えして、笑った。

「謝るくらいなら、もう二度と無茶はするな。良いか」
(… 努力する)

 その返答にはぁ、と大きいため息をつかれた。
 一護が痛くない程度に、ぎゅっと抱き締められた。

(浦原も、…その、有難うな)

 夜一の肩越しに、浦原を見た。
 いつになく穏やかな顔で笑っていて、一護はそれに微笑み返した。



2006/09/22