爪先に滲む

 破面。
 虚の性質を持ったそれは、酷く凶暴で薄黒い欲望を秘めている。
 けれどこの子供は何処までも純粋だった。
 何処かが欠けているなんて思えないほど。

「一護の裏切りモノ〜」

 しかしどうしたものか。
 織姫を助けるため、虚圏に潜入した際、出会ったこの小さな破面。
 一護に酷く懐いてしまって。
 黒腔を抜けて、こちらへやって来たらしい。
 藍染はその辺を関知していないのか?

「ネ、ネル。泣くなってっ」

 妹のようだ。
 一護には二人の妹が居て。
 もう一人、出来たかのように。

 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔を、柔らかなタオルで拭ってやった。

「…えぐ…っぐす…」
「ったく…」

 ぐずるネルを膝に抱き上げる。
 幼い頃母親にしてもらったように。
 背を擦って。
 ゆらゆらと身体を揺らす。

 泣いて疲れて眠ってしまうのは、破面も同じか。
 うつらうつら、眠りの縁に誘われたネルを、布団に寝かしつける。

 一護ははあ、とため息を吐いた。
 この破面は何をしに来たのだろう。

「一護さん、それ、何スか?」

 それとこの男も。
 こめかみに見えるのは、青筋…?

「どう見ても破面ですよね?」
「…破面…だけど」

 憎い敵を見るかのような目つきで、男はネルを見下ろした。
 一護がいなければ、彼の手元にある杖…いや、杖に擬態した斬魄刀を振り下ろすかも知れない。

「 ……もしかしてあの水色をした破面の…」

 グリムジョーのことだ。
 一護に何度も瀕死の傷を負わせた破面の男。
 それがネルに、何の関係があると?
 一護は分からず、首をかしげた。

「いつ生んだの?」
「は?」

 生んだって誰を。
 この話の流れでは、…ネルを?
 誰が。

「井上さんを助けるフリして、あちらで?」

 男はいつの間にか部屋に入ってきていて。
 一護の肩を覆えるほどの手で、掴んでくる。

「浮気なんて……許せると思ってるの?」

 吐息が触れるほど。
 一護に近づいて。
 ギリ、と服越しに爪が食い込んだ。

「い…っ」

 パジャマの袷を持つ手が引かれ。
 悲鳴のような音を立てて、ボタンが弾けた。

「アナタの血肉を分けて生まれた子でも。ただの肉片にするでも足りないくらいだ」

 下着を着けていない。
 むき出しの柔らかい肌に、少し長めの爪が入り込む。
 痛みと共に嫌な音がして、滲み出る。

「いたい…っ うら、はら!」
「アタシのココロはもっと痛いんスよ?」

 手を引いて、爪と肉の間に入り込んだ血を舐める浦原の仕草に。
 一護は背筋が粟立つのを感じた。

「バカ野郎ッ 勘違いしてんじゃねえっ」

 腰を抱く手が、不埒な動きを見せ。
 それを抓って、一護は浦原の頬を引っぱたいた。

「何で、ネルが俺の子供、なんだよ」

 先は声を荒げたけれど。
 隣では、寝息を立てて眠るネルが居る。
 だから一護は声を潜めて。

「…ネルは、虚圏で出会っただけだ。暇だから、遊びに来たんだとよ。第一、何でグリムジョー…」
「この子供、緑の髪じゃないですか」 

 それがどうした。
 一護は浦原を睨み付けた。
 肌が外気に触れるせいで寒い。
 既に衣服として用をなさない布きれを、精一杯合わせて。

「一護さんの髪は橙。あの男は水色。…混ぜ合わせたら、緑です」
「絵の具かっ!」

 金色の頭を殴りつける。
 混ざるはずがないだろう。
 昔は護廷で隊長を勤め上げ、局長の座に付いていた男は、ただのバカなのか。

「うう…ん……一護…?」

 一護が怒鳴ったからか。
 ネルが身じろぎをする。
 一護は驚いて、後ろを振り返る。

「…誰っスか…?」

 むにゃむにゃと言って、ネルは小さな手で目尻を擦る。

 拙い声の口調は、どちらかというと、この男に似ているなあ。
 一護はそう思った。
 だから敵であるはずの破面なのに、憎めないと思ったのか。

「一護の旦那様です」
「嘘付くなっ」

 浦原はネルを覗き込んで。
 先ほどの殺気など嘘のように、笑みを浮かべる。
 何処か空恐ろしい笑みであったが。

「一護の……浮気相手っていうのは、こいつのコトなんスね」

 浮気相手。
 前からネル。後ろから浦原。両方の視線を感じて。
 一護は首を力強く何度も横に振った。

「浮気ねえ」
「藍染様は嘆いていたんスよ」
「ふうん…藍染と……」

 それは盲点…いや、あの元眼鏡が一護を狙っていることなんて分かり切ったことだ。

「ネル!お前はどっちの味方なんだよ!」

 破面とはいえ、一護達死神たちを手助けしたこの少女は。
 藍染に作られた存在とはいえ、あの人畜非道の男を嫌っていたのではないか。

「っ…」

 合わせていたはずの、元パジャマの裾から。
 腰に回ったひんやりとした手が入り込む。

「一護さんは誰のものなのか、はっきりさせる必要がありますねえ」

 先ほど傷ついて。
 けれど既に血は止まり、固まった場所に爪を立てられる。
 ベリ、という音がする。

「ちょ…っ 浦原!」

 再び血が滲み出てきたそこを、爪で掻いて。
 一護は痛みに身を震わせる。
 その身体を抱き寄せて、浦原は。

「さあ、子供は家にお帰りなさい」

 柔らかな橙に鼻を埋め。
 殺気に竦んだ子供に、酷薄な目を向ける。

 大気が揺れる。

「子供相手に大人げない」

 白い衣裳の男。
 世界を裏切った男は、ネルの襟元をつまみ上げる。

「自分の子供なら、変わるかもしれませんねえ」

 さあ、早く帰らないと世界が気付きますよ。

 浦原がそう告げると、男はくつり、と笑った。
 また、大気が揺らぐ。

「さて、一護さん」

 一護の肩が震える。
 その様を、浦原が悦んでいるのを感じ取る。

「此処とアタシの部屋、どっちが良いっスか?」

 浦原は至高の笑みを浮かべ。
 連れ去るようにして、一護の身体を抱き上げ消えた。



2007/03/10